3月
19
Posted on 19-03-2013
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銀座シネパトスが3月いっぱいで閉館するという。

シネパトスのことは以前も、このブログに書いたことがある。2011年8月だったと思うが、梶芽衣子と宇崎竜童の『曽根崎心中』を見たのだった。増村保造の1978年の傑作。そのときも書いた記憶があるが、この映画館の独特な雰囲気はとてもいい。銀座といっても三原橋の地下というのは、銀座四丁目の交差点からほんの100メートルかそこらの場所とは思えない「場末感」が漂う。かつては「三原橋名画座」というのがあった。今はシネパトス1,2,3という3スクリーンがある。

地下に入る入り口からして写真のように淋しい雰囲気で、これが晴海通りの両側にある。晴海通りの下が映画館になっていて、地下全体が広い通路で、向こう側に通じている。

地下には映画館だけではなく、居酒屋「三原」もあって、その大衆的な雰囲気が独特なのだ。映画を見ていると、時どきというか、

頻繁にというか、スクリーンの裏あたりで地下鉄の音がひびく。東京メトロ日比谷線である。上は晴海通り、下はメトロなのだ。

繁華街の真ん中だから、暗闇ではきっとゴキブリやネズミなんかもうろちょろしているのだろう。それもこれも、銀座らしからぬ場末感というか、昔のままの感じが捨てがたい。

3月いっぱいで閉館というのは残念な気もするが、まぁ何となく納得してしまうような感じもある。

よくここまでやってきたよな~と思う人もいるだろう。

 

 

 

 

 

3月
08
Posted on 08-03-2013
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皇居東御苑は一般公開されている皇居内の公園だが、そのいちばん東側、パレスホテルの前の大手門から入ったところに宮内庁三の丸尚蔵館がある。宮内庁所蔵の美術品や歴史的な資料の展示をすることがある。何時だったか、伊藤若冲の絵の展覧会を見たことがある。若沖のいいものは宮内庁がたくさん所蔵しているのだという。

その三の丸尚蔵館で「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』」なる展示が開かれていたので、見に行った。明治天皇の命を受けて、明治12年に皇族15人を含む、諸官省の高等官や主だった軍人など4531人の肖像写真を集めた写真帖が作られたという。何のために作ったのかは、よく分からないが、とても一人では持てない程重そうな、分厚い写真帖が展示されていて、こういうのを39冊作ったらしい。

幕末から明治にかけての、僕らも名前はよく知っている歴史上の人物の写真もたくさんある。明治天皇は、あの有名な御真影も実はイタリア人の画家キョソーネが描いた絵を写真にしたもので、写真を撮られるのがキライだったというけど、やっぱり近代国家日本を代表する人物たちを写真に撮り、冊子にまとめておきたかったのだろうか。

明治12年といえば、西暦1879年だから、写真術もかなり進んだものになっていたはずだ。日本にもかなりの写真師、あるいは写真館が存在していただろう。しかし、鶏卵紙にプリントされた明治の元勲たちの肖像写真は古びているのは当然としても、写真としては構図的にも人物の表情もそれほどいいものではない。天皇の御下命だというので、大蔵省印刷局が1年間で作ったというから、急ピッチで進められた、やや拙速の仕事だったのかもしれない。というようなことも含めて、この写真帖、あるいは写真自体が僕には実に興味深いものだった。

僕らの知っている(名前を、だが)人物が皆若いので驚く。東郷平八郎海軍少佐、34歳、乃木希典陸軍中佐、32歳、板垣退助正四位、44歳・・・。さすがに勝安芳(海舟)は58歳、岩倉具視56歳で、ちょっと世代が上だ。もっとも、当時40歳代の人物の写真を見ると何となく老境という感じにも見えるから、現在とは違うけど。

まぁ、ここに写真が残されている人たちが、この後何をしたのか、が日本の近現代史だということになる。

閑話休題。

ルッコラというのはイタリア料理のサラダなんかに使う野菜のひとつだが、それを植木鉢に植えて、窓際に置いておいたら、小さな十字架花がたくさん咲いた。よく見るとなかなかデザイン的に優れものだ。

ルッコラの花

 

 

1月
18
Posted on 18-01-2013
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きのう(1/17)のNHKテレビ『クローズアップ現代』では、木下恵介を取り上げていた。木下恵介再評価の機運が高まっているという内容で、「弱く、美しき者たちへ~映画監督・木下恵介」というようなタイトルで放送された。今年度のカンヌとベネチアの両方の映画祭で木下作品が招待上映されたそうだけど、木下作品が世界的に再評価されているらしい。木下恵介は日本映画の歴史の中では巨匠中の巨匠だが、ほぼ同時代の黒沢明とは違って、世界的な評価とは無縁だったかもしれない。また、おなじ松竹大船で仕事をした小津のように、世界の映画監督に大きな影響を与えたということもなかった。

黒沢映画が強者を描いたものという意味では、木下作品は弱いものの映画だ。また、小津作品が庶民の暮らしの中の小さなドラマに人間描写を極めたものだったのに対して、木下作品は戦後の社会の問題に目を向けた「社会派」的な視点を持っていた。そして、木下映画は実はとても難しい内容のものが多い、というのが僕の感想だ。

僕は少年時代に日本映画に目覚めたが、最初に見た木下映画は『二十四の瞳』か『野菊の如き君なりき』だったと思う。どっちが先だったか覚えていないが、中学生の僕はどちらにも感激して映画少年になっていくのだ。しかし、あとで見返して考えると、当時の僕は2本の映画の伝えようとする本当のところは理解していなかったと思う。木下恵介は社会的なテーマを取り上げるが、ストレートには描かない。描かれているのは戦争や貧困、差別や因習といった圧倒的な力に踏みにじられる庶民、弱者のまだるっこしいような弱い姿だ。それらを通して木下恵介のメッセージを受け入れるのは高度な鑑賞眼が必要だ。60年前の中学生には理解できたかどうか心もとない(今の中学生には分かるだろうが)。

きのうの番組のスタジオには山田太一さんが出演していた。山田さんは脚本家だが、松竹大船出身で木下恵介監督の助監督の経験がある人だ。木下監督は師匠ということになるのだろう。その山田太一さんの話がとてもよかった。弱者への視点ということを、きちっと語っていた。黒沢は強者の映画、木下は弱者の映画・・・、弱者への視線がクローズアップされる時代であるのは間違いない。

1月14日は朝9時ごろから、終日雪が降って、東京でもかなり積もった。一日中絶え間なく雪が降るというのは珍しい。子どものときは雪が降ると何となく嬉しかったものだが、あれは何故だろう。あたりの風景がいつもとは違って見えるだけで嬉しいような感じなのだ。外出の予定もあったが、「日和見主義」を決め込んで、終日家にいた。外へ出て写真を撮る。写真を撮るというのも、子どものときの嬉しいような感じと通じているか・・・。東京でも厳冬期の雪はなかなか消えずにいつまでも道路を雪道にしてしまう。みんな滑らないように気をつけて歩いている。

 

12月
31
Posted on 31-12-2012
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今年もきょうで終わる。いつも年末の日記にはその年に亡くなった人を思い出して書くことにしているけど、ことしはどうだったか。

新藤兼人、若松孝二の二人の映画監督が亡くなった。この二人の名前を並べて書くと日本映画の多様性がよく見えるような気がする。映画でいえば今年は女優さんが亡くなった年だった。2月に三崎千恵子と淡島千景、7月に山田五十鈴、8月に津島恵子。そして11月には森光子。みんな90歳近いかそれ以上の年齢。森光子は舞台の人だが、他の方々は戦後の日本映画の全盛時代に活躍した女優さんたちだった。11月には井上雪子が亡くなった。97歳。戦後映画どころか、1930年頃の小津安二郎監督の無声映画の主役だった方だ。だいたい、女優さんは長生きの人が多いような気がする、8月に亡くなった宝塚の春日野八千代も96歳だったという。

男性俳優で言えば、大滝秀治、小沢昭一という著名な方々が亡くなったが、何と言っても中村勘三郎の逝去は残念。まだ57歳だった。

個人的には、今年は原田正純さんが亡くなった年として記憶しておきたい。水俣病特別措置法による患者認定申請の打ち切りを政府が行った7月末の直前、6月11日のことだ。「水俣病は終わらない」といい続けた人である。皮肉なことだ。

 

 

 

 

12月
08

今年はレモンが黄色くなるのがいつもの年より少し早いような気がする。秋の天候とか気温の違いかもしれない。急に寒くなったせいだろうか。うっすらと黄ばんでいるように見える。いつもは正月ごろ色が付き始めるのだが。

黄色いといってもこの程度。気のせいかもしれない

しかし、きょうの日記はレモンのことではなく『さなぎ』という映画のこと。

三浦淳子さんのドキュメンタリー映画『さなぎ~学校に行きたくない』を見た。三浦監督は僕の友人鈴木志郎康さんの多摩美の教え子で、鈴木さんからこの映画のことを紹介された。『さなぎ』はとても面白かった。

小学校1年の時から学校に行くのがイヤだった少女を、3年生頃から大学卒業頃までずっと撮り続けた映画だ。長野県の田舎の村で暮らしている少女だ。はじめは教室に入ると「頭に棒が刺さっている」ような感じで頭が痛くなり、学校に行けない日々が続いたそうだ。ずっと撮っているうちに、だんだん普通に学校に行けるようになっていた。6年生の時は生徒会長になったりしている。

映画には少女の家族、お母さんやおじいさん、おばあさんや兄弟も出てくるが、多くのシーンは近所の仲良しの友達とあそんでいる場面だ。その遊んでいる場面がどれも素晴らしい。見ていて思わず笑ってしまうような雰囲気がとてもいい。いつまでも遊んでいる。少女が段々に成長していく様子がわかる。

不登校問題をテーマにしたという風な説明をしても、この映画のことを語ることにはならない。この映画は問題を指摘したり、解決の道を考えたりはしない。ただ、学校に行きたくなかった女の子がだんだんに学校に行くようになったのを描いているだけ。家族との会話や仲良しの友達と遊んでいるのをずっと写しているだけなのだ。

成長して大学を卒業する頃になって、彼女は自分のことをカメラに向かって語れるようになっていた。家族のやさしさや親しい友達やまわりの環境や学校など、どれも少女の成長によい影響があったのだろうが、僕には十年以上もビデオカメラで写されていたことが、よかったのだと思える。被写体となる人物にとって、写されたことが「よかった」といえることはドキュメンタリー映画にとっても、いいことだろう。

 

 

 

11月
11
Posted on 11-11-2012
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2か月以上この日記を書かなかった。特別な理由はなく、なんとなく忘れていたような感じで書かなかった。その間、この日記に関わったことといえば、ブログの表紙の写真を雲から葡萄に変えたことだけ。この葡萄の写真は10月半ばに信州の塩尻のワイナリーに行ったとき撮影したもの。ナマで食べる葡萄ではなく、ワイン用の葡萄だ。収穫した後の、ちょっと紅葉した葡萄棚に残っていた取り残しの葡萄、品種は僕には分からない。

2か月の間に季節はゆっくりと変わった。9月は何時までも暑く、秋が来ないのかと思ったものだ。実際、彼岸花やキンモクセイの開花もいつもよりずっと遅かった。キンモクセイは普通東京では9月末には満開になるのだけど、今年は10月半ばにやっと花をつけた。こんなに遅いのは始めてのような気がする。やっと秋の陽気になったかと思っていたら、11月になって、たちまち寒い日が続き、セーターや冬の上着を出したりした。もう冬の感じになってしまった。

いろいろ考えてみると、気候の変動が昔とは違ってきているような感じがする。温暖化がよく言われるが、たしかに、昔は東京では見られなかった南方系の蝶が今では普通に飛んでいるようになった例が幾つもある。ツマグロヒョウモンがその代表的なヤツで、今や東京の秋の蝶で一番多いかもしれない。6、7年前から目立つようになった。

生物ばかりではなく、竜巻なんていうのも昔は聞いたことがなかった。ここ1、2年竜巻の被害とか、「竜巻注意報」が出たりするのはどういう変化なのだろう。

この間、東京では霧が出た。霧は昔から無かったわけではないし、夜霧よ今夜もありがとう・・・とか、歌謡曲にも歌われているけど、なんだか珍しいような気がして、夜、道路に出て撮ったのが下の写真。

2012年11月6日夜 東京では広い範囲に霧がたちこめた

 

 

 

9月
05
Posted on 05-09-2012
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僕は一応映画史を勉強してきたので、G・メリエスの『月世界旅行』(1902)は何度も見ている。ただし、いずれも完全なものではなく,どこかが(多くはラストのシーンだが)欠落した不完全なもの。というのは、映画史上の超有名作であるこの作品、ジョルジュ・サドゥールの『世界映画全史』にシナリオも掲載されていて、30場面で上映時間16分と書いてある。だから、それより短いものはどこかのシーンが欠けているということになる。

僕の持っているアメリカ版の「The MOVIES BEGIN」というDVDシリーズの『A TRIP TO THE MOON』はDVD用のタイトル込みで11分45秒しかない。他にも日本で出たDVDやビデオも皆似たような長さで不完全なものだ。これ以外に僕は13分超の作品も見たことがあり、それはラストシーンの一部分が入っていた。そして、僕が見たのはすべてモノクロだった。

今日、青山のイメージフォーラムで見た『月世界旅行』は15分32秒の尺があり、ほぼ完全版と思われるものだった。しかもカラー版(着色)!

なんと『月世界旅行』カラー版なのだ

この映画にカラー版があることは『世界映画全史第3巻』に紹介されているメリエスの発言などで、想像はできたが、どこにも残されていないと思われていたらしい。それが、1993年にスペインのバルセロナで奇跡的に発見されたという。ただしフィルムはぼろぼろに劣化した状態で修復は不可能だったらしい。

それがほぼ20年かかって、フランスとアメリカの技術陣の手でオリジナルと同じクオリティで修復され、上映が可能になった。去年のカンヌ映画祭で初めて上映され、今回日本での上映が実現したという。20年がかりというけど、最初、湿気た焼き海苔のカタマリのようになっていたフィルムを蒸気を当ててほぐし、バラバラの断片にしたまま、10年近く保存したという。その間、修復・着色のためのデジタル技術の進歩を待っていたのだというから驚いてしまう。メリエスのお孫さんのところに保存されていたモノクロのオリジナルを修復のモデルにしたとも聞いた。2010年から、アメリカのテクニカラー社の技術が駆使されて、フィルムは20世紀初頭の着色カラー映画そのままに蘇った。

草創期の映画には実はカラーの作品が沢山ある。人の手で1コマ1コマ色を塗ってカラー画面を作っていたのだ。フィルムのコマの着色作業をする女性たちがメリエスの作業場にズラーッと並んで仕事をしている写真が残っている。かつての日本の紡績工場のような感じでもある。

映画には音がつくより前に色が求められたのは何故だろうか。

 

8月
17
Posted on 17-08-2012
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佐伯泰英の小説は読んだことがないのだけれど、文庫書き下ろしの時代小説という新機軸で有名だ。多作で「月刊佐伯」と揶揄され(←佐伯氏本人がそういっている)ながら、文庫本180冊、累計4,500万部というのだから,1冊も読んでいないというのに、すごいとしかいいようがない。

その佐伯泰英に『惜櫟荘だより』という著書がある。つい最近岩波書店から出た、これはハードカバーのエッセイ集で、岩波の書評誌『図書』に連載されていたもの。時代小説作家と岩波書店というのがミスマッチのようで目を引くが、実は以下のようなわけがある。

佐伯氏は熱海の伊豆山の崖の上あたりに仕事場を持っていた。その仕事場の隣に古いが堂々たる日本家屋があり、それが、今は住む人のない「惜櫟荘」だった。実はこれ、岩波書店の創始者岩波茂雄が昭和17年だかに建てた別荘で、建築家吉田五十八の手になる文化財ともいうべき建築なのだった。

いろいろな経緯は略すが、その惜櫟荘を佐伯氏が買い取り、完璧な修復をした後、将来に亘って自身で管理することになるのだ。一体どのくらいの資金が必要だったのかも含めて、まことに快挙というべき決断だが、そのいきさつを物語作家らしい軽妙な語り口、筆致で書いたのが『惜櫟荘だより』だ。そこに書かれている岩波茂雄の別荘建築にかける情熱や期待、また吉田五十八の建築家としての徹底ぶりもすごいが、著者佐伯氏の二人の先人へのリスペクトにも並々ならぬものがある。

もう一つ興味深いことがあって、それは次のような因縁だ。

岩波茂雄が惜櫟荘を建てたのは戦争中のことで、軍事優先の時代に、八方手を尽くして日本中から最高の材木、石材などを入手したという。莫大な金額がかかったことと想像できる。岩波書店は昭和の始めに古典の普及を目的に、はじめて文庫本を発行した。その岩波文庫は人気を得て、よく売れたという。そして、佐伯氏が惜櫟荘修復落成式で語ったという挨拶がいい。

「旧惜櫟荘が建設された戦前、建築の原資となったのは、売れ行き好調だった岩波文庫だったようです。戦場に徴兵される若人らは、限られた私物の中に岩波文庫の古典を忍ばせて行ったとか・・・。70年の歳月が過ぎ、文庫の意味合いも変わってきました。かくいう私は文庫書き下ろし時代小説という、これまで老舗出版社が考えもつかなかった一発勝負の文庫書き下ろしで出版界になんとか生き残ってきた小説家です。惜櫟荘は岩波文庫で建てられ、七十年後、書き下ろし文庫で守られた建物・・・」。

徴兵され、戦場に赴く若者が私物の中に文庫本を・・・。うーむ。すぐに思い浮かぶのは鈴木六林男の「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」という一句だ。鈴木六林男フィリピン戦線での作だという。六林男はそこで負傷帰還して、戦後活躍した。

お盆の休みも過ぎたけど、空にはまだ夏の雲

 

 

7月
22
Posted on 22-07-2012
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先日、といっても例によってだいぶ前のことだが、明治大学の図書館で「城市郎文庫展」を見た。「城市郎文庫展~出版検閲と発禁本」という展覧会だ。

城市郎という人とその仕事を知ったのはいつ頃だったろう。1960年代の末か70年代に、ぼくらは明治・大正時代のちょっとヘンな書物にはまったことがある。宮武外骨や梅原北明・・・。その時に、城市郎の本の存在を知ったのだった。桃源社から出ている城市郎の本を何冊か買って読んだ記憶もある。今も持っているはずだ。それで、この展覧会のことを知ったとき、すこしなつかしいような気分になったのだ。

ところが、この展覧会、想像していた以上にすごいものだった。城市郎氏(今年90歳)が長年に亘って収集した明治、大正、昭和の発禁本7,000冊あまりの個人コレクションを明治大学に寄贈したのを記念して開催され、明治以降から戦後までの発禁本がずらりと展示されている。珍しくちょっと興奮してしまった。

戦前の出版検閲や書物の発禁処分について、それほど深い関心があるわけではないが、書名だけは知っていた本、例えば幸徳秋水の『兆民先生』や『平民主義』『社会主義神髄』の実物を始めて見た。これらはみんな明治時代の発行の少し後で発禁になっている。「安寧禁止」だ。

しかし、展示された書物を見ながら気がついたのだが、明治、大正に発行された本が昭和10年代に「安寧禁止」で処分された例が圧倒的に多い。戦争遂行と書物の発禁が深く関係しているという当たり前のことに思い至る。

プロレタリア文学や社会主義思想に関する書物が多いが、エッ!と驚くような本も発禁になっている。岩波文庫の『文明論之概略』、福沢諭吉の有名な著作だが、文庫が出たのは1931(昭和6)年、それが昭和11年に発禁になっている。「安寧禁止」。ボードレエル『悪の華』(矢野文夫訳)は昭和16年発禁。これは「風俗禁止」が理由だという。織田作之助『夫婦善哉』とか深田久弥『鎌倉夫人』とかエッ!はキリがない。鎌倉夫人は新聞小説で、作中、帝国海軍軍人がバスの車掌と恋愛するのは怪しからんという理由で風俗禁止で中断を強いられたという。ファシズムのグロテスクはすごい。

昔の書物は何となく風格がある

 

7月
11
Posted on 11-07-2012
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前回、カラスの不審な挙動について書いたが、カラスの集団が狙っていたのはビワの実だったことが分かった。

カラスの群れの近くで長いこと空を見上げていて、真相が究明された(笑)。いまビワの実が濃い黄色に色付いている。どこの家の庭にもあるという木ではないが、うちに近所にもビワの木のある家があって、この季節だけよく目立つ。目ざといカラスにはすぐに見つかるだろう。カラスがビワを喰うとは知らなかったが、柿にはよく集まるからビワも旨いのだろう。

ビワの実がなった木のある庭の周りの電線や屋根にカラスの群れが集まって大騒ぎをしているのだった。実をくちばしにくわえたヤツが飛んでいたり、屋根に止まって喰ったりしている。

庭木のビワだから、果物屋で売っているような立派な実ではなく、小さいくて殆んどタネばかりだろうけど、ちょうどカラスがくわえられる大きさなのかもしれない。

それで、ビワが実っている写真を見てもらうけど、実はこれ、去年の今頃撮った写真だ。場所も新宿御苑で、うちの近所でカラスが集まるビワの木とは関係がない。新宿御苑には大きな木がたくさんあるが、このビワもちょっと比類なき・・・というべき大樹だ。無数に実っているビワの黄色い実がまるで豆電球のようだ。

新宿御苑のビワの大木 2011年7月2日撮影