6月
03
Posted on 03-06-2011
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ふたたび新聞記事の継続的情報についての話だが、新聞が捨てられないのは今回の地震・津波・原発震災の記事を継続的に読むためだ。地震以来、ぼくがほぼ毎日ずっと見ているもののひとつに「被災者数」の囲み記事がある。

これは3月12日の朝刊以来、毎日、紙面のどこかにでている。ぼくは朝日新聞を見ているけど、他の新聞もだいたい同じように掲載している。前日の警察庁まとめの数字だ。死亡・行方不明・避難(している人)の数が表示されているだけのもの。

例えば今朝の新聞の被災者数(警察庁まとめ2日現在)は「死亡15,327人、行方不明8,343人、避難99,592人」とある。これが毎日出ていて、毎日少しずつ変る。死亡者の数が増えて、行方不明者が減っていく。最初、3月12日の朝刊では死者133人、行方不明530人(朝日新聞調べ)だった。地震津波発生直後の大混乱で確認が取れないでいることが判る。3月15日になると、死者3,150人、安否不明15,833人となる。ぼくはこの頃から「安否不明」の数に注目して今日に及んでいる。3月25日に安否不明者が19,806人となって、たぶんこれがピークだったと思う。災害1ヶ月となる4月10日の朝刊21,22面の特集記事で「安否不明」は「行方不明」に変った。そして、日を追うごとに行方不明者の数は少しずつ減っていく。

                   しかし、ぼくは数を問題にしているのではない。

ガレキの中から遺体が見つかる場合もあるし、既に安置された遺体の検死や鑑定で身元がわかる場合もあるだろう。その結果、行方不明の数字が減り、死者の数字が増えることになる。新聞に表示されているのは数字に過ぎないが、その数字の変化は被災地での沢山の人の活動を想像させる。警察や医師による検死やDNA鑑定がずっと続いているのだろう、その活動の結果が数字を減らしていく。死の確認は新たな悲しみや嘆きをもたらすだろうし、家族や親しい人の死を受け入れることにつながる場合もあろう。いずれにしても、そこには、人の奥深いところでの気持ちの揺らぎがあったはずだ。数字は被災地での人の内面を想像させるのだ。

行方不明者が1万人を切ったのは5月7日だった。5月7日の新聞に載った6日まとめの数字は10,063人、8日掲載の7日まとめの数字が9,960人だった。ぼくは津波による被害だから、波にのまれて海の沖へ流されてしまった場合も多いだろうと想像していた。3月ごろには、そういう死者が1万人はいるのではないかと危惧していたが、1万人を切ったことに少し驚いた。

そして、毎日の数字を見ていると、行方不明者の数の減り方と死者の数の増加に整合性がない事に気がついた。減少と増加の数が合わないのだ。それがなぜだかはよく判らないが、なにか様々な事情があり、そこでは機能的な確認作業だけが流れ作業のように行われているのではないことも判る。

ところで、今朝の新聞・・政治家はいったい何をしているのだろう。あきれてものが言えないというやつだ。で、それを伝える新聞はこれまたいったいなんだろう。政治家と新聞記者は同じレベルだ。政治家に期待しないが、「政局」とかいって興奮しているのは新聞記者も同罪。こういう新聞は「捨てられない」どころか、早く捨てる。

 

『東京の好きな風景』 これは僕の勤めていた大学の構内にある楠の大木で、枝振りが気に入っている。西日本には大きな楠が多いが、東京では少ない。この木の枝のあちこちに10人ぐらいの子どもを座らせて映画を撮りたいと思っているのだが・・・。