4月
08
Posted on 08-04-2011
Filed Under (未分類) by toda

毎年さくらが咲くと風の強い日や雨の日があって、満開のさくらがいつまでもつか、ということになりやすい。4月の天候は荒っぽい。それでも今年のさくらは(ぼくの周りでは)6日にほぼ満開となった。

この写真のさくらはソメイヨシノだ。満開ちょっと前のソメイヨシノの巨木も、もちろん悪くない。妖艶というべきか。でも、ぼくはヤマザクラ系の、葉の芽吹きと花が一緒に咲く種類の方が好ましいと感じている。ところが、ヤマザクラの控えめな風情を写真にするのはとても難しい。下の写真は風情抜きの説明的な写真だ。

5日の夕刊(朝日新聞)に池澤夏樹さんの月に1度の連載コラム『終わりと始まり』が載った。ぼくはいつも愛読していて、いつも池澤さんの書いていることに納得し、いつもその通りだと思うことが多い。このコラムのファンである。

今回、池澤さんは3・11の大震災に関することを書いている。東北に血縁の方がいて、安否がなかなか確認できず、無事とわかった後もたいへんな想いをして、その方々の避難につきそい、何とか別の場所に落ち着くまでの厳しい個人的な体験があったという。そんなこともあったのかと驚き、感動もしたが、個人的な体験とは別に(深くつながっているけど)、池澤さんは言う。

「政府や東電に対してみんないいたいことはたくさんあるだろう。しかし現場にいるのは彼らであるし、不器用で混乱しているように見えても今は彼らに任せておくしかない。事前に彼らを選んでおいたのは我々だから」

この文章は段落後、「今の日本にはこの事態への責任の外にいるものはいない」と続く。ぼくもその通りだとは思う。しかし、原発事故の経緯を見ていると、ぼくらの社会がこんなにもいい加減で無責任な基盤の上に成り立っていたのかと絶望的に成らざるを得ないのも、ぼくの実感だ。自分もそのことに責任があると思うとなおさらいたたまれない気分になる。

今回のコラムでは、珍しく少しだけ意見が違う。被災地の惨状や避難所生活の苦労に対してぼくらは様々なアクションや支援も可能だ。しかし原発事故のなりゆきに対して、ぼくらに可能なのは、具体的な事実を示す「ことば」しかないのではないか、と思うのだ。

「政府や東電に対して」、いうべきことを、いま発言しておかないと、池澤さんのいう「何かが完全に終わり、まったく違う日々が始まる」時、それらの日々がこれまでと少しも変わらぬものになってしまうような気がするのだ。