6月
09

今年のアカデミー賞で作品賞や監督賞他5部門で受賞した『アーティスト』という映画はモノクロ、スタンダードしかもサイレントという触れ込みで、1920年代末のトーキー登場の時代の映画製作現場を描いた作品だ。同じ時代を扱ったものにアメリカ映画『雨に唄えば』(1952年)があるが、こちらはジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンによるミュージカル映画。言うまでもなくトーキーになって新しく登場したのがミュージカル映画だといえるから、二つの映画は片やサイレント映画そのままのスタイルを強調し、もう一方はトーキー映画の手法でサイレント映画時代を描いたということになるか。もっとも、『アーチスト』でも音楽は終始鳴りっぱなしだったけど、無声映画時代の上映でも生演奏がついていたわけだから、不自然とはいえない。

いずれにしても、無声映画からトーキーへの映画技術の転換期のゴタゴタはドラマチックなエピソードにあふれていておもしろい。

僕は『アーチスト』を銀座シネスイッチで見たが、劇場で聞いたらフィルムでの上映だった。こういうモノクロ、スタンダードの映画をDLP上映(デジタルデータによる映画上映システム)でやっていたらマンガだな・・・と思っていたけど、さすがにそういうことでもなかった。もっとも、同じ時期に新宿ピカデリーではDLP上映だった(確認してないけど)というから、映画メジャーのDCI(Digital cinema Initiative)構想が拡大しているのがよく分かる。

映画の上映システムがデジタルに統一されつつあるのが問題になっている。前にコダックが倒産してイーストマンのフィルムの製造がヤメになったことをこの日記に書いたけど、なんであれ、ひとつに集約してしまう効率主義はくだらないというのが僕の立場だ。表現に関わるものに必要なのはひらかれた多様性だろうから。

とはいえ、もともと映画というのは登場した時からその時代の最新の科学技術で成り立っていたし、科学技術の進歩とともに発展してきたわけだから、映画が新しい技術を排除することはありえないだろう。ただし、技術というものをどのように考えるのか。1927年のトーキー登場以降の映画表現について、ロベール・ブレッソンは言った「トーキー映画は沈黙を発明した。/絶対的な沈黙と、物音のピアニシモによって獲得される沈黙と。」表現の世界での技術のありようは単純ではない。デジタルのように白か黒かプラスかマイナスかでは説明は出来ない。

本棚の隅で羽根を広げるアゲハチョウ。 この蝶、少し黄色の色素が不足気味ではないか

きょう東京でも梅雨入りしたという。今降っているのも五月雨ではなく梅雨。半月ほど前に庭のレモンの木についていたアゲハチョウの幼虫が蛹になったので、枝ごと部屋の本箱の隅に置いておいた。きのうの朝羽化して蝶になったのを発見した。